JR芸備線の歴史

大正
大正4年

芸備線開業

今は一本の路線としてつながっている芸備線ですが、区間によって様々な歴史を辿っています。
最初に開業したのは東広島(当時の広島駅の東にあった駅で、現在の東広島とは異なる)~志和地間で、大正4年4月のことです。芸備鉄道株式会社という会社によるもので、同年6月には三次(現西三次)まで延伸しました。
大正11年

庄原市内に開通

庄原市内の線区については、芸備鉄道が大正11年6月に三次~塩町(現神杉)を開業後、同年12月に備後庄原まで延伸し、初めて庄原市内に鉄道が走ることとなりました。
なお、広島駅へは、大正15年に乗り入れを開始し、山陽本線と直接つながっています。
一方、岡山県で伯備線から分岐する備中神代駅からの区間は、国鉄三神線として建設が進められ、昭和5年2月に備中神代~矢神間、同年11月に矢神~東城間が開業しました。
昭和
昭和8年

「庄原線」へ改称

昭和8年6月に芸備鉄道の十日市(現三次)~備後庄原間を国鉄が買収。「庄原線」とします。
昭和9~10年

現在の路線が全開通

昭和9年3月に備後庄原~備後西城、昭和10年6月に東城~小奴可、同年12月に備後西城~備後落合の区間が相次いで開業。
最後となる小奴可~備後落合間が昭和11年10月に開業し、現在の路線が全通します。
昭和12年

「芸備線」へ改称

全線開通の翌年、昭和12年7月1日に国鉄が芸備鉄道の広島~備後十日市を買収し、備中神代~広島県が「芸備線」となりました。

戦前・戦後の芸備線

全線開通当初は農林産物や鉱物の貨物輸送を目的とされましたが、旅客輸送も活発に行われていました。
全通の時期と重なる戦争の時代には、多くの出征兵士を送り出しただけでなく、広島市に投下された原子爆弾の被爆者を運んだという歴史もあります。
庄原市でも多くの被爆者が亡くなり、沿線の山内地区では現在も毎年8月6日に慰霊祭が執り行われています。
戦後の芸備線は、昭和12年に全通した木次線と共に、広島と山陰地方を結ぶ陰陽連絡路線として全盛期を迎えます。中でも最も有名なのは、「急行ちどり」で、夜行便まで設定されるほどの人気を博しました。
この頃は地方路線でも多くの急行が運行された時代であり、芸備線ではほかにも「たいしゃく」「しらぎり」「いなば」「やまのゆ」「ひば」といった急行列車が運行され、米子や岡山とも直通するものもありました。
昭和47年

芸備線縮小期

新幹線の岡山開業と伯備線の特急新設、道路の発達等の影響を受け、芸備線は縮小の時期を迎えます。
平成
平成2年

陰陽連絡急行の消滅

急行は運行区間の縮小が相次ぎ、「ちどり」はJR化後に木次線への乗り入れを廃止し、備後落合駅止まりとなり、陰陽連絡急行は消滅しました。
平成14年

「ちどり」「たいしゃく」の廃止

芸備線の急行の中でも特に長年愛された「ちどり」と「たいしゃく」は3月23日をもって廃止され、庄原市内を急行が走ることは無くなりました。
平成19年

「みよし」から
「快速みよしライナー」への転換

「ちどり」「たいしゃく」の廃止後、広島~三次を結ぶ「みよし」が残り、平成19年まで運行されましたが、とうとう廃止され、快速みよしライナーへと転換されました。
なお、急行みよしは、全国で一時代を築いた国鉄・JRの「急行」として、昼行では最も後期まで残った列車の1つであり、また、全国津々浦々まで走った急行型車両「キハ58系」が急行列車として最後まで活躍した点からも、多くのファンに記憶される列車となりました。
令和

現在の庄原市内の路線
について

地方ローカル線向けの「キハ120型」が1両で運行される区間ばかりとなっており、全国有数の閑散路線とされています。しかしながら、一方では秘境駅として知られる「備後落合駅」や「内名駅」、木次線の「三段式スイッチバック」や「奥出雲おろち号」を目当てに多くの鉄道ファンを中心とした観光客が訪れています。

駅・沿線のご紹介はこちら